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サディアのブログ :

But It's the Truth!

2018-01-08 at 19:29PM

But It’s the Truth!
By Sadia November 2017
Translated by Nisreen Belly Dance
 
でも、本当です! /サディア・カミル
和訳:ニスリーン

 

厳粛に誓いますが、これから述べることはすべて真実です。

私はエジプトのナイルクルーズでパフォーマンスしたことがあります。
私はヨルダンで教えたことがあります・・・
私はカナダでパフォーマンスしたことがあります。
私は何度かセイシェル島でパフォーマンスしたことがあります。
私はオーストラリアでレッスンしたことがあります。
私はシリアで踊り、教えたことがあります・・・
私はロシア、マレーシア、ドバイ、そしてカタールを訪れたことがあります・・・
私はテレビでインタビューを受けたことがあります。
私は二回ドイツで教えたことがあります。
私はメキシコを旅したことがあります。


凄いなと思いましたか?もう少し詳しく説明させてください。

私はエジプトのナイルクルーズでパフォーマンスしたことがあります。

(ダンスの研修旅行でエジプトへ行った時の話です。生徒ダンサーは、夜ルクソールへ向かう途中のナイルクルーズでパフォーマンスするチャンスをもらうことができたのです。大した事ではありません!誰でも踊ることができました。貸し切りパーティーだったからです。もちろん、ナイルクルーズで踊りたかったので手を挙げました!)

私はヨルダンで教えたことがあります・・・

(・・一度、私の元生徒さんの自宅での話です。ヨルダンへ行ったのは、私の元生徒さんがアンマンで国連に勤めており、自宅に招いてくれたからです。レバノンから東京へ帰る途中で、私は数日間彼女の家に滞在しました。彼女は私が滞在している間に少しレッスンを受けたかったのです。また一晩小さなパーティーがあって、ヨルダンの友達に自慢するから踊ってほしいと頼まれて踊りました。)

私はカナダでパフォーマンスしたことがあります。
(・・あるクリスマスに、ケベックに住む親戚の家を訪れた時の話です。もちろん、初めて会う親戚もいたので、みんな私にパフォーマンスして貰いたがりました。ただ家族間の集まりでパフォーマンスしたというだけのことです。)

私は何度かセイシェル島でパフォーマンスしたことがあります。

(でもそれは私の友達が、前大統領の友人で、私を特別オリンピック委員に紹介してくれたからです。その流れで、彼らのイベントでパフォーマンスすることを持ち掛けられたのです。後で洒落た夕食会でもパフォーマンスしました。また、単に私のことをおまけか何かと思っていたレストランでも何度か夜踊りました。本当にまったく特別なことではありませんでした。航空券費用も主催者持ちで招待して貰えた、といったことではありません!)

私はオーストラリアでレッスンしたことがあります。

(ブリスベンの友達のところに泊めて貰った時のことです。その友達と、友達の友達は私のベリーダンスレッスンにとても興味を持っていたので、滞在中に何度かレッスンをしました。また、滞在最後の夜のパーティーで踊りました。)

私はシリアで踊り、教えたことがあります・・・

(何年も前にシリアを訪れた時の話です。あるパーティーに出席したところ、私がプロのダンサーだという事が分かった途端に引っ張り出されて、彼らと一緒に踊らせられたのです。何人かの女性たちは踊り方を教えてほしがったので、バンドが演奏を続け、歌手が出てくるところ、私は彼女達にいくつかのステップを教えました。すべて即興で、パーティードレス姿のままで行ったことです。)
 
私はロシア、マレーシア、ドバイ、そしてカタールを訪れたことがあります・・・

(・・・レバノンへ向かう途中の経由地だからです。こういう風に地名を並べて書かれたものを読むと、まるで私が踊るため、あるいは教えるためにこれらの国を訪れたかのような印象を受けるのではないでしょうか。)

私はテレビでインタビューを受けたことがあります。

(実際には何度か経験したことです。でもそれは、ちょうど空いた時間が埋まるような、ちょっとした話題を探しているローカルなチャンネルでの話です。私は本当に小さな町の出身です。英語の教師でありながら注目を集めるベリーダンサーである、という事実はとても興味を引く話だと考えられたのだと思います。)

私は二回ドイツで教えたことがあります。

(初めてこのような経験をしたのは何年か前、先述の、私がヨルダンで訪ねた友達の家でのことで、生徒は彼女一人でした。2回目は今年の夏の話です。プラハへ向かう途中で、別の私の以前の生徒と、その旦那さんを訪ねました。私がどんなことをしていたのかと彼女は興味を持っていたので、いくつかのステップと、プラハのベリーダンスフェスティヴァルで披露する予定だったダンスを見せました。私たちはただ心地よく彼女の家で過ごしていただけで、パーティーなどはありませんでした。全くなかったのです。)
私はメキシコを旅したことがあります。

(ごく短い休暇でのことです。当時交際していた男性と一緒にエンセナーダへ小旅行をしました。まったくダンスとは関係ありませんし、かろうじてメキシコ、という場所でした(訳者注:エンセナーダはアメリカとの国境沿いの町)。それでも、この文脈で書かれていると、ダンスのために旅行したのだろうと読者が受け取るのが自然な推察だと思います。)
ここまで読んでもまだ「凄い」と思いますか?いいえ、私自身も思いません。もしこのような詳細を知らなければ、私はかなりの人物と思われることでしょう。でも今は背景を知ってしまいましたね。ただ経験した事実だけを挙げていたのでは、誤った印象を与えることがあるのです。
今日のダンサーやパフォーマーは正にそのようなことをしています。彼女たちは実際よりも自分が優れた人物であるかのようなイメージを作り上げて広めています。ダンサーやプロモーターは、いまだに宣伝広告の中にも真実があるものと信じている私たちを、誤った印象へと誘導しているのです。
上で挙げたような国際的な経験についてはどうでしょう?それで私は国際的スターという事になるのでしょうか?私は日本に住んでいます。そして私は日本人ではありません。だから、自動的に私は国際的という事になるのでしょうか。スターですか?上記の経験が理由でそうなれるとは思いませんし、いずれにしても、スターかそうでないかと言うのは他の誰かが決めることです。私の決めることではありません。

「衣装は忘れずに旅行する。」はいつでも私のモットーです。私はダンサーですから。衣装やフィンガーシンバルを持たずに旅に出る事はありません。いつどんな機会が訪れるかわからないでしょう?旅行に出る際、以前の生徒の為に小さなワークショップを開催することや、友人のパーティーでパフォーマンスをすることを期待されている事は実際によくあります。時にはワークショップやフェスティヴァルでのダンスに招かれて、旅行することもあります。でも多くの場合は、旅行するのはただ楽しむためです。偶にしか会えない友人のリクエストに応えるのは吝かではありませんし、友人達と共に自分の才能を分かち合うことは楽しいことです。また良くあるのは、ほかのダンサーを訪ねて一緒に踊って楽しむことです。小さなワークショップを開催するように頼まれることもあります。

いよいよ本題に入りますが、私は今や膨大な数に昇る印象操作もはなはだしい広告や、不相応な受賞、特にまがまがしい、溢れるばかりの、空虚な賞賛が横行する今日の状況を糾弾したいと考えています。そういったものはすべて、ダンスには有害なものだからです。


不相応な受賞


ベリーダンスが世界中で人気になるにつれ、ベリーダンスのコンペティションも増える一方です。プロモーターも、コンペティションがあれば人がイベントに集まると心得ているのでしょう。大量のコンテストが開かれていますが、中には良く考えられていて公平な物もあれば、そうではない物も多くあります。私は今年の夏、講師として召喚されたフェスティヴァルで審査員を務めるように頼まれました。オリエンタル、フュージョン、フォークロアと3つのカテゴリーに分かれたコンテストでした。あるダンサーはオリエンタルカテゴリーで「バラディー ノスタルジア」という名前の曲で踊りましたが、その曲は中東の音楽でさえありませんでした。彼女はなかなかに優れたオリエンタルのテクニックを持っていましたし、素敵なオリエンタルの衣装を着ていましたが、カテゴリーとは違う選曲だったので私は0点を付けました。のちに主催者は同じ曲で、フュージョンカテゴリーで彼女にパフォーマンスの機会を与えました。おそらく主催者がダンサーに同情しての判断だろうと思うのですが、いったいどのような基準で審査をすればいいのかと私は首を傾げてしまいました。それに、フュージョンだとしたらいったい何をフューズ(混ぜること)しているのかもよく分からなかったのです。
特にお手本が提示された訳ではありませんでしたから、私は自分で審査基準を考えました。自分自身がベリーダンス・オブ・ザ・イヤーで審査を受けた時と同じ基準を採用することにしたのです。衣装/外観(美人かどうかではありません)、登場/退場(ここが良くなければパフォーマンスは台無しと誰もが知っていると思います)、テクニック、音楽表現/振り付け(誰かのコピーのように見えない個性があることも含まれます)、複雑なプロップ使い、そして何より観客の反応(観客への訴求力)。

フォークロアカテゴリーにはたった3人の出場者しか居ませんでした。そのうちの一人はとてもよく知られたレバノンのダブケの曲を使っていました。(ファレス・カラムのアル・タンヌーラです。)ところが彼女はこの曲にサイーディの振り付けを踊っていたのです。またも、私は0点を付けました。サイーディとダブケの区別がつかないのに、どうやって講師として勤めると言うのでしょうか?またどうやって点数を取ることが出来ると言うのでしょうか?私の英語の生徒が、課題とは関係ない内容の作文を提出すれば、合格させる訳にはいきません。正しく書き直すか、それが出来なければ卒業できないはずです。

ところが、このダンサーは三位になりました!つまり「受賞に輝いたダンサー」と名乗れるようになったわけです。証拠の写真とビデオもあります。私はただもう頭をかきむしるばかりでした。
自信を持って言えますが、ふさわしくない受賞歴を手に入れているダンサーは彼女だけではありませんし、このコンテストだけがあてにならない賞を出している訳でもありません。こんなに情けない状況でなければ、上記のコンテストのような結果は笑い飛ばすことができるはずです。いったいいつになれば私たちはもっと責任を持った言動をとるようになるのでしょう。つまり、このようなダンサーたちに間違っているものは間違っていると指摘できるようになるのでしょう?(ちなみにこのダンサーに対しては、私は何度も誤りを指摘しましたが、彼女は信じることを拒絶し、間違いを認める代わりに、賞賛に値することをしたかのように「受賞に輝いた」ビデオをFace Bookに投稿し続けています。)


空虚な賞賛


 その分野の経験豊かな専門家による批判は嫌がられてしまうからと、(訳者注:心にもなく)ダンサーを誉めそやすような事を、いったい何時になったら私たちはやめるのでしょうか。
長年の経験があり、一定以上の評判を築いているダンサーは、本当にありのままを人々に言わなければならない時、イベントの主催者や生徒、そしてコンテスト参加者におべっかを使ったりお世辞を言ったりせず、伝えていく責任があります。そうしなければ混乱に加担するばかりです・・今日どこでも見られる現象ですが。
専門家がしっかり導いていかなければ、いったいどうやって人が間違いに気付くことができるでしょうか。私がこのようなことを言うのはダンサーをやっつけたいからではないし、またはダンサーのエゴを修復できないほどに傷つけたいからではありません。パフォーマーとしてアーティストとして、学び成長していくためには批判も受け入れなければならないと私は思うのです。そして師として、私たちは真摯に教えていく責任があるのです。
(生徒を自分の利益のために利用して過度なレッスン料の支払いを強いたり、ダンスのために必要な物を高額な値段で売りつけたりするのではなく。師を信じて委ねている生徒をこんな搾取の対象にするのは最悪です。)
生徒やコンテスト参加者に対して空虚な賞賛や、ふさわしくない賞を与えるべきではありません。もっと仕事が欲しいから、またはもっと人気者になりたいからといって、良くもない物に対してひたすら良い、と言うのは間違っています。
L.Aのレストランで初めてアラブのバンド演奏と共にソロパフォーマンスをしたとき、私は若いダンサーでしたが新人というわけではありませんでした。当時、私はどれほど己惚れていたことか!アダム(訳者注:レバノン人の伝説的ダンサー、アダム・バスマのこと。)がビデオカメラを構える中、私は20分ほどのフルセットを踊りました。レバノン人の観客の前で踊ったのですが、踊り終わってから着替えてテーブルに戻った時、誰も何も言いませんでした。一言も話しかけなかったのです。良いとも、悪いとも言いませんでした。彼らの沈黙が全てを私に教えてくれました。でも、アダムは翌朝、さらにはっきりと言葉で私にわからせたのです。「さて、君を今から批判するぞ。」ああ、なんてこと!L.Aでの苦いパフォーマンスの思い出です。
もしレストランで観客にお世辞を言われていたら、アダムの言ったことをそこまで真剣に受け取らなかっただろうと思います。それにそのパフォーマンス経験からそこまで多くを学ぶこともできなかったでしょう。
その夜踊った時、私は足がステージに着かずに、飛び回っているような感覚に気付いていました。しっかりと根を張ることが出来ず、音楽に沿うのではなく逆らうようにして踊っていたのです。音楽の激しいエネルギーにさらわれて、アドレナリンが出すぎていたのです。翌朝ビデオを見てみて、私自身でさえも一体夕べ自分は何の音楽を聴いていたのかと不思議に思ってしまいました。確かに私のダンスはバンドが演奏する音楽に合っていなかったのです。その時のアダムは全く容赦なしでしたが、後になってみると、あの批判は彼のくれた中でも最も親切な贈り物でした。
その後の一週間で、次のショーのために私がした練習は、おそらくその前の1年通しての練習量を上回っていたと思います。もうあんな恥ずかしい思 いは御免だと思ったのです。信じられないことですが、レストランオーナーは前回の恐ろしい出来のショーを見ても私を首にはしなかったのです。師であるアダムの存在も関係していたのでしょう。そして次のショーで私は遥かに良い仕事をしましたし、その次、またその次と進歩していきました。

批判されて嬉しい人はいませんが、賞賛ばかり受け取っていたら自分のためになるでしょうか?もちろん正直に誉め言葉を言う事もできますが、同じく正直にその曲はダブケであってサイーディではないと言う事も出来る筈です。オリエンタルのコンペティションで中東の音楽ではない音楽を使うのはあまりに場違いだと言う事も出来る筈です。ただのツギハギの動きでは、どんなに技術が優れていてもフュージョンとして成り立たないという事が出来る筈です。それに多分、何にでも「素晴らしいですね」と拍手を送る代わりに、正直に意見を伝え、若い世代を導く事が出来るような勇気あるアーティストに対しては、感謝するダンサー達も中にはいる筈なのです。


催しをするたび、誰でも受賞させる必要はないでしょう。こんなにも受賞がたやすいことなら、賞の価値は失われてしまいます。本来なら賞というのは他の皆ができないことをした人の手に渡るはずの物です。ただビジネスに協力して貰いたいがために賞をあっちこっちへ与えていたらどんなことになるでしょうか。私たちはそこまで低レベルなのでしょうか。それでは賄賂とどう違うというのでしょう。高校生のように派閥でも組むつもりですか。いったい私たちは何に対して賞を与えているのでしょうか。良いビジネスのコネに対しですか。それとも良いダンスに対してですか。


こんなシナリオに聞き覚えはありませんか?-あなたがイベントに招待してくれるなら、私もしますよ。まずはあなたが招待してください。喜んであなたのイベントでパフォーマンスしますよ。私のショーに来て、必ず生徒さんを連れてきてくださいね、だって私はこんなにすごいオーガナイザーなのですから。まるで依怙贔屓のようではありませんか。本当に知識深いダンサーや、才能あるダンサーが誰かなんてどうでもいい、まず、私にどんな良いことをしてくれるのか教えてください、そうしたら私もあなたに何をしてあげられるか言いますから。これはビジネスですよ。

こう言ってはなんですが、本当にうんざりしてきます。私たちはビジネス上ベストな物を陳列するばかりで、ダンスにとってベストな選択は何かを考えていないのです。素晴らしいイベントを作り上げるために努力し、協力した人に対して賞を与えることは何も悪くありませんが、いったいなぜダンスの価値を害するような人々を持ち上げたりするのでしょうか。

 

誇大広告


ぜひ教えてほしいのですが、いったい何故こんなに沢山「スーパースター」が居るのですか??誰もがスーパースターになれるとは思えないのですが・・。オリンピックのチャンピオンに誰もがなることはできないのと同じことです。ちょっとおかしいと思いませんか。もう少しスーパースターという称号を特別に扱ってはどうでしょうか。こうも頻繁にこの言葉を乱用していると、そのうち私たちは「オオカミ少年」のようになるのではないですか。徐々に自身の信頼性を失くしていき、また称号も無意味になってしまいます。

そのうちスーパースターでは 目新しさがないからと、メガスターと言い出し、次にはメガ・スーパースター、キンキラキン・メガ・スーパースター、とでも言わないといけなくなるはずです。しまいには「輝ける銀河系の3倍ホットなキンキラキン・メガ・メガ・スーパースターと、煌めく宇宙の唯一無二にして最っっ高ダンサー」とでも言い出すのでしょう。

 

もう、この訳の分からない状態、誰か何とかしてよ!と叫びたくなってしまいます。

いつか私はこんな風に自分のことを宣伝してみたいです。

 
地球上で最も才能がなくてひどいダンサー

とにかく来てその目で確かめてください!

賭けても良いですが、それはもう下世話なひどい観客を呼び寄せることになるでしょう。(ゴシップ好きな人たちのことはご存知ですよね。)そして、実際に見てみたら私は最低のダンサーではなかったと知って、がっかりすることでしょう。事実として、私はなかなか良いダンサーです。ベリーダンス・オブ・ザ・イヤーやミス・アメリカ・オブ・ベリーダンスを含むいくつかの賞を受賞してきましたし、カリフォルニアに住んでいたころは長年アダム・バスマのダンスパートナーを勤め、また彼のトゥループのソロイストを勤めてきました。ニューヨークのボビー・ファラーにも招かれ踊ったことがありますし、ハリウッドのスタジオで撮影されたサミー・ファラグの2つのビデオに出演したこともあります。また世界中の様々な国に招かれ、教え、踊ってきました。これは、本当ですよ!!ですから、私は自分のダンスは悪くない、と思っています。マゾヒストでもありませんから、おそらく最低のダンサーという広告を出すことなど実際はしないと思います。ただ何もかも嫌になってしまう瞬間というのはあるものです。スーパースターとはとても呼べないようなダンサーが、伝説のダンサーと祭り上げられているのを見た時などがそれです。伝説、という言葉は私の耐えられる限界を超えています。

 


伝説??!!!


本物の伝説というのはこのような人々ですーごくわずかです。もしご存じなければ調べてみてください。それだけの価値がある人々です。ヘレナ・ブラーホス は伝説です。  ダレーナ、 アルテミス・ムーラ、アイーダ・アル・アダウィ 、 ナグワ・フォワード, モナ・サイード, そして スヘル・ザキ は伝説です.  アガサ・クリスティー、ウンム・クルスーム, アブデル・ハリム・ハーフェズ, そしてパヴァロッティは伝説です。

 

またここには名前を挙げきれませんでしたが、ほかにもたくさん伝説という言葉にふさわしい人々がいます。伝説とはただ専門分野の技術に優れているだけではなく、人間の感情を深く揺さぶり、飽きることのない作品を作っている人々です。芸術の価値に寄与し、人間社会全体を豊かにするような人々です。個人を超えた存在なのです。芸術の哲学そのものを形にし、深い智識を広めるための技を持つ人々なのです。さらに、彼らのようになりたいと願う誰かに対しても、広い心で、惜しみなく分け与えることの出来る人々です。


伝説、という言葉を軽々しく喧伝して回り、ふさわしくない人を持ち上げるために利用しているのを見てしまったら、もう私は沈黙してはいられません。声を上げないではいられません。

どうやって。どうして?なんでまたそんなダンサーが伝説になれるのか、と。

多分その答えはご想像通りでしょう。

 
真に才能と知識で芸術に貢献している人々を無視して、まったくふさわしくない人々を祭り上げ続けていたら、私たちはどうなるのでしょうか。ここであえて個人名を挙げるようなことはしませんが、良いパフォーマーとそうでないパフォーマーを区別するのは容易いことです。ですが名声を築いているパフォーマーについては、スーパースターとか伝説とか言った肩書で人の目を眩ませるのも容易いことなのです。

 

このエッセイの冒頭のように自身の経験を伝えるのは実に誤解を与えるやり方ですし、うさんくさいことこの上ありません。私が詳細を説明しなければ、誰もが尾ひれ付きの私のスターとしてのキャリアを信じで感心することでしょう。「インチキ・マジック商法」とでも言えるでしょう。一部のダンサーはこの商法で自分のキャリアを実際よりも盛り立てて見せ、スターダムを這い上がろうとしているわけです。プロモーターは書中この方法を使っています。チケットを買わせてイベントに観客を呼ぶため、「ホット」「スーパースター」「伝説」といった煽情的でキャッチーな言葉に頼っているのです。
この頃は本当に注意が必要です。広告はほとんど信用ならないからです。特にダンサーが外国ゲストであれば、パフォーマーについて書かれたことを全部信じてはだめです。本当にスーパースターですか?ただの売り文句ですか?同じ国の人々なら、真実を知っていて、肩書に本当にふさわしい人物ではないこともわかっているでしょう。チケットを売るためのプロモーターの戦略だと分かっている訳です。もしくは、その「素晴らしいスーパースター」とは誰なのかも知らないかもしれません。おやおや、スーパースターではなかったのでしょうか??つまり誰も知らない「自称スーパースター」という事ですね。

******************************
不相応な賞で人々の目を眩ませようとする人々へ、故意に誤解を招くような誇大広告をするような人々へ、厚かましくも根拠のない賞賛をあげつらって自分をスーパースター・伝説に仕立てるような人々へ、私は2つのことを伝えたいと思います。

まず、聡明なレバノンのアーティストの言葉から「全ての人に嘘をつくことができても、自分自身に嘘をつくことはできない。」

そして私からは一言だけ。

「因果応報。」

 


サディア
東京にて

 





What Kind of Dancer?

2018-01-08 at 19:11PM

WHAT KIND OF DANCER? 

どのようなダンサーか

 

ロビーとは何でしょうか?

 

ロビーは部屋と部屋の間を人が行き来する際に、通過するための場所です。ロビーは人が誰かと待ち合わせ、そして去っていく場所です。

ロビーは人がひっそりとした場所を探して大きな会議室を抜け出し、秘密の会話をするための場所です。

ロビー、という言葉から何を思い浮かべますか?

ロビーという言葉はホテルを連想させますし、

チェックイン、チェックアウト、スタッフに新しいタオルや近くのレストランについて訊く場所というイメージもあります。

ですがどう考えても、ロビーという言葉でダンスパフォーマンスは連想されません。

 


なぜでしょうか?


ロビーで素敵なパフォーマンスを見たことはありますか?これまでにパフォーマンスしたことがありますか?ロビーは憧れるような場所でしょうか?また、無料でパフォーマンスをすることは嬉しいことでしょうか?

五つ星ホテルの、宴会場フロアーなのに、ロビーでパフォーマンスすることを友達に伝えて、いい気持ちがするでしょうか?決してしない筈です。

また、あなたがプロのダンサーや、もしくはアマチュアダンサーであったとしても、特別な名誉の瞬間の為に何時間もリハーサルに費やしたところだと想像してください。

それなのに、オーガナイザーはあなたをロビーでパフォーマンスさせようと考えていた。残念な気持ちにならないでしょうか。

 

今度は何百人と言う人が、ロビーに通じる2つの大宴会場に居るものと想像してください。

ロビーの方には、当然踊ることができる空間がたくさんあります。人は皆、大宴会場の中でお祭りを楽しんでいるのですから、当たり前のことです。

それならどうして、人が集まる大宴会場のほうにステージがないのでしょうか。

 

なぜ主催者が、宴会場の人々が楽しめるようにとエンターテイメントのための場所を提供しなかったのでしょうか。

 

なぜなら、そのようなことをする主催者に、あなたの価値はまったく軽く見られてしまっているからです。結局の所、あなたの時間、あなたの衣装、あなたの才能に対して何一つ支払おうとしない人が、あなたに対してほんの少しでも尊敬を抱いているなんてどうして思えるでしょうか。彼らはエンターテイメントを求めてはいるかもしれませんが、あなたが理解しておかなければならないのは、あなたの存在はそのような主催者にとっては二の次だと言うことです。例え、まかないはあったとしても。

 

彼らがあなたに頼んだ素晴らしいエンターテイメントというのが意味するところは、ただの飾り物、前座に過ぎず、彼らにとって価値はありません。それでも彼らはあなたにお世辞を言い、尊敬されていると思い込ませることでしょう。結局は五つ星ホテルのイベントだというのに、着替えをするためのまともな部屋すらも用意をせず、実際は2つも大宴会場を借り切っているというのに、きちんとした宴会場の中の空間も確保せずに、ロビーで素晴らしいショーを見せることを期待されるといったような羽目になります。それどころか、パフォーマンスに登場するかどうかすら彼らにとってはどうでも良かったのだと気付くことになります。彼らにとって、あなたはメインアトラクションではありません。なぜならお金にはならないから。

 


本当にそうでしょうか?以前私たちがある大きなチャリティーイベントで踊った時は、主催の方々は(彼らは私たちにとても良くして下さいました。)私たちのショーのお陰で、その前の年の2倍もの数のお客様がイベントを訪れたと言っていました。入場料だけで、私たちはイベントの収益を挙げることに大変に貢献したことになります。


でも、もちろん、私たちはメインアトラクションではないですよね。まともな人にとっては理解できる話です。なぜなら私たちはただのダンサーだから。ダンサーなんて、重要な筈がないですよね。ダンサーは二の次で、飾り物、前座に過ぎないから。

 


理解ができないのは、ダンサーが、値するだけの敬意をもって扱われないことに我慢ができてしまうということです。このような条件を受け入れてしまうことで、ダンサーは自分の価値をもっと下げてしまうことになるのです。そして、一旦受け入れてしまれば、もうそれより良い条件を手に入れることは出来ないでしょう。こうした主催者のような人々が、あなたが生徒からアマチュアへ、セミプロへ、そしてプロダンサーへとステップアップして行く過程に気付いて、徐々に尊敬を示してくれるようになると思うでしょうか。


今すぐに、自分で自分に敬意を示しましょう。

 


ロビーは、前座には適した場所かも知れませんね。ですが大宴会場は、聖なる場所です。名誉あるゲストの皆様が集まるのですから、雇われ人は隅に身を潜めていなければ。隠れて、目の届かない場所で。キッチン、トイレ、物置、そしてロビーに。宴会場なんて、魔法の場所ですから。素晴らしい人々だけがいらっしゃる場所なのですから。素晴らしい人々は、エンターテイメントを楽しまれるために宴会場を訪れるのです。では、その外のロビーで行われるエンターテイメントとは一体どんなものだというのか、私に教えて下さい。

 

 


誰であれ、私はダンサーがロビーで踊る方を好むことがあるなんて思えません。私は誰かにとっての二の次の存在、ただの飾り物や前座として扱われることは拒否するからです。

私はダンサーです。私は全てのダンサーを,生徒だろうが、アマチュアだろうがプロだろうが、私が求め、そして値するのと同じだけの敬意をもって扱います。ダンサーのみなさん(そしてもちろん音楽家や歌手のみなさん)は主催者の方々には出来ないことを出来る存在です。ダンサーは何時間も何日も何週間も何か月も、そして何年もかけてトレーニングを受けています。大変な金額をレッスンと衣装に注ぎこんでいます。

何よりダンサーは全身全霊で、自分の専門分野としてパフォーマンスしているのです。

ダンサーのみなさん、まずは自分で自分を尊敬出来ないのなら,人からの尊敬を得ることはできません。

 

あなたがプロであろうとなかろうと、きちんとした扱いを望み、そして求めて下さい。なぜならいずれプロになる時が来た場合に、さて人々のあなたへの敬意はどこにあるでしょうか?ある日プロになりました、と言って、急に湧いて出るものではありません。きちんとした扱いというのは、プロかアマチュアかに関わらず、誰にとっても最低限の扱いのことです。

きちんとした扱いというのが意味するところは、適切な、安全な着替えの場所と、踊るため十分な広さの空間、そして音割れしたりせず十分な音量が出る音響、そして十分なお給料です。(チャリティーの場合は、主催者の志を助けるため、無料で踊ることは、私も良くあります。)

きちんとした扱いというのは決して贅沢な内容ではありません。

 

ですが、人々にこのような内容を求めるためにはあなた自身がまず自分に対して敬意をもって、大切に扱わなければなりません。特に主催者やレストランオーナーに対する場合はそうです。敬意というのは言葉ではなく、実際に提供される内容によって示されます。


低い扱いにあまんじるのはやめましょう。

大宴会場で踊るダンサーになりましょう。




 





Pro or No?

2018-01-08 at 19:01PM

PRO OR NO?   The second of two parts

Japanese Translation by Nisreen Belly Dance

プロダンサーであるということ。

 

最近、ベリーダンスショーを観客として観に行った際、出番まで1時間も時間があるのに、衣装の上にヴェールを巻いただけの姿で私に挨拶に来たダンサーを見て、驚いたことがあります。また発表会や生徒さん向けのハフラでは、衣装の上に何も身に付けずにそこら中を走り回っているダンサーを良く目にします。本来あってはいけないことですが、ホールの観客席の一番前の列を、衣装姿のダンサーが陣取っていることさえあります。こんな光景を見ていると、いったいどうして彼女達の先生は、ショーの前や後に衣装姿で出てこないようにと教えていないのかと不思議に思ってしまいます。羽織ものや、ガラベーヤを一枚、上に着るのは簡単に出来る事です。どうして全てを見せてしまうのでしょう?このような振る舞いはお客様のショーの楽しみを台無しにしてしまいます。

(ショーの前であれ後であれ)プロダンサーが衣装姿でお客様と一緒にテーブルに着く光景を見ることになるとは、以前は想像もしていませんでしたが、最近では東京で良く見る習慣になりつつあります。ダンサーが、自分自身を、そしてアートを高いものとして守る方法を心得ていないのです。彼女達はショーの前に衣装姿で姿を現すことが、どれほど観客から見たショーの印象を引き下げてしまうかを分かっていません。観客は、魔法にかかったような時間を求めているのです。サプライズの贈り物を渡すように楽しませてほしいのです。

こうしたダンサーは、ショーの後の振る舞いがどれほどパフォーマンスを台無しにするか理解していません。

パフォーマンスの後にすぐに衣装を着替えてしまえば、ダンサーとしてあなたの印象は高いままで保たれます。あなたはスターですから「スターの力」があるのです。

もしショーの後、衣装のままで観客の中に入っていって同じテーブルに着いてしまえば、あなたはスターの位を失いますし、何も特別なことはなくなってしまいます。私はこういったことは常識だと思っていましたが、(訳者補足:最近になって、)プロダンサーであるための教育の一部として、明らかに提供されるべき知識だと思いました。プロでさえマナーを知らない様子だからです。様々な場面で、私はダンサーがレストランショーの後、(ヴェールさえ身につけず)衣装姿で観客と同じテーブルについて、夕食に手を伸ばすのを見たことがあります。このような教育の欠如は信じがたいものがあります。最初にまず私の頭に浮かぶのは、いったいどうして、進んで高価な衣装を食べ物や飲み物のシミの危険に晒すの?ということですが、もっと重要な点を言えば、こうした振る舞いはパフォーマンスの魔法を壊してしまいますし、観客の注目を熱望しているはずのダンサーがどんな程度かを物語るものだと言う事です。

観客の目から見て、つい先ほど夢のようなショーを披露した存在が、「そこらへんの人」の振る舞いをする姿がどんなにおかしく見えるかは言うまでもないことです。

 

衣装についてもう少しお話すると、プロダンサーは豪勢で華やかで、きらびやかな衣装を少なくとも4着は持っているでしょう。(印象を変える必要がありますから。)衣装が適切な状態であることも重要で、安全ピンが見えていたり、古びていたり、スカートがぼろぼろだったり、色あせていたり、ブラの肩ひもが剥き出しになっていたりしてはいけません。あなたをスターに見せるものでないと駄目なのです。レストランで踊るなら、食べこぼしや硝子の欠片が散らばっている可能性もありますから、ダンスシューズの着用も必要です。レストランの床は綺麗とは言いがたい場所ですから、きちんとダンスのためのスペースが確保されていないのであれば、フロアーワークは避けるべきです。

 

プロダンサーなら、踊る場所に余裕を持って到着し準備をするでしょう。私は大抵は家でメイクを済ませて,レストランでは手直しをするだけの状態にしておきます。プロならば、踊ることを仕事として扱うことが大切です。

ショーの前後にお客様と同じテーブルに着くのはやめましょう。ホステスの役割を担ってお客様を席にお連れしたり、挨拶して回ったり、お客様のために飲み物を注文したりするのは止めて下さい。あなたの役割は踊ることです。もしお友達が会いに来たら、普段着の姿で顔を出して挨拶し、立ち去りましょう。スターの神秘と魔法を壊さないためです。

ショーの後は、彼らに会いに行くまえにさっと普段の姿に戻りましょう。着替えてしまえばあなたの仕事の時間は終わりですから、お友達とくつろぐことが出来ます。褒め言葉をほしがって衣装姿でウロウロしたり、知らない他人に腕を回された姿で写真に写るのはもってのほかです。

 

多くのダンサーが、初対面の男性が、まるで恋人のように腕をダンサーの体に回して写真を撮ることを問題ないと考えているようですが、全く、あり得ません!あなたは「スター」なのです。

彼らには、手は触れないようにと言うべきです。お客様に対して、感じよく親切に接するのが駄目だと言いたいわけではありません。(訳者注:腕を回してくるような男性は)既にダンサーはみんな娼婦のようなものだと思込んでいます。それは違うと示せるかどうかはあなた次第です。あなたが値するだけの敬意を得るためには、少し距離を保つことが必要なのです。あまりに気安く接すると、特に彼らがアラブ人であれば、あなたも娼婦の一人だと思われてしまいます。ただ腕を回させて一緒に写真に写っただけで、です。

触れさせてはいけません。屈辱的な扱いに甘んじてはいけません。まるで恋人のような扱いを受け入れてはいけません。

多くのアラブ女性は、本当は気乗りするときでも、拒否することがありますが、これは「自分は簡単な女ではない」と示すための彼女達の作戦です。

「難攻不落」になって下さい。そうすれば彼らはもっとあなたを追いかけるでしょう。そして、敬意を勝ち取ることができるでしょう。

また、最近レストランショーでよく見るのは「知っている動きを全部見せたがる」ダンサーたちです。(奇妙なことですが、一人ではなくて何人も居るのです。)

レストランショーは勉強の成果を見せる発表会とは違います。レストランショーの目的は、お客様を楽しませることです。可愛らしく、活き活きと振舞って、お客様の目を見張らせ、心を分かち合って、笑わせて-

そう、エンターテイナーになることです。知っているステップや、スタイルを全部見せることが目的ではありません。退屈な、起伏の少ない音楽は使わないことです。ゆったりした音楽を使うなら最小限の時間にしましょう。ラブバラードで踊るのは止めましょう。お客様が手拍子を出来るような、アップビート、またはパーティー向きの音楽を選びましょう。

 

お客様はウムクルスームの古典音楽よりも、ポップスの方を喜びます。観客を飽きさせる最高の方法は、ゆっくりした音楽か、または複雑なオーケストラによるモダンエジプシャンの音楽で踊ることです。モダンエジプシャンの音楽は巨大なステージで映えるように創られています。どんなに音楽自体が素晴らしくても、あなたが想いを込めて踊っても、テーブルの合間を縫う様に小さなレストランで踊るのは、全くお話にならない音楽です。スピーチの名人や著名な作家のように、プロダンサーはその時々の状況や観客に合う表現をしなければなりません。ステージパフォーマンスはレストランショーとは180度違いますし、結婚披露宴と誕生日パーティーでも違うでしょう。また、ダンススペースがどのくらいの広さなのか、時間がどのくらいなのか、どんなプロップが使いやすいのか、ということも考慮すべきです。このような要素を加味した上で、あなた自身の気持ちが盛り上がる音楽を、賢く選んで戴きたいと思います。

 レストランで踊るときは、私はいつもその日の気分で、3種類のセットリストを用意しています。前もってレストランに行って、カップルが多いか?大人数グループはいるか?誕生日とか特別な記念日のお客様はいるか?といったことを見ます。その夜の観客を分析して、3種類の中で一番適切に感じる音楽を選ぶのです。レストランでは、どんな物でも振り付けは決して踊りません。2030分間の間、完全に即興で踊ります。レストランショーだと、あまりにも予測出来ない色々な要素があり、振り付けで踊っているとその夜、その時、その観客だからこそ起こる出来事に対応しきれないからです。振り付けのルーティーンに縛られていると、思う様にエンターテイナーに徹する事が出来ません。

例えあなたの先生が勧めたとしても、本当に準備ができるまではプロとして踊るのはやめましょう。これを言うのは本当に残念なことですが、現実には最近の多くの先生は単に生徒を利用しています。先生方が熱心にプロとして踊る事を勧める動機は何なのか、疑って下さい。特にあなた自身がまだ準備できていないと思うならなおのことです。先生が勧めるのは、あなたに素敵な新しい衣装を法外な値段で売りつけるためですか?それとも更に特別レッスンを増やして、これ幸いと益々レッスン費を払わせるためですか?

技術や、パフォーマーとしてのスキルに欠けた状態でのデビューはダンス、またダンサー全員にダメージを与えるだけです。観客は、プロだと思ってあなたのダンスを観ます。実際にプロのレベルに達していなかった場合、私たち皆の評判を傷つけるのです。自分自身に正直になって、自分のレベルを見極めて下さい。観客はプロフェッショナルなショーを期待するものですが、プロのレベルにかすりもしないレストランのダンサーは沢山居ます。彼女達は経験が必要な生徒ダンサーですし、そのいかにも素人な様子はベリーダンス自体のイメージを悪くしてしまいます。彼女達が低賃金で踊ったり、時には「オーナーへの親切で」無料で踊ることさえあるのは最早言うまでもありません。あなたがプロなら、プロらしく賃金を受け取って下さい。もし自分のダンスがお金を受け取るには値しないと思うなら、本当にプロになる準備ができるまで、他のダンサーのショーを見て、練習を続けましょう。準備ができるまでは、パフォーマンスしたいと言う誘惑に打ち勝って下さい。
人は、あなたの直近のパフォーマンスを記憶するものです。もしそれが今ひとつなら、あなたは今ひとつなダンサーとして記憶されます。果たして、またあなたのダンスを見たいと思うでしょうか。生徒ダンサーは時に踊るチャンスを得ることに必死になりますが、お金を払っているお客様には、本当にプロフェッショナルなショーを提供しなければならないのです。どうか、実際にはプロではないのに、プロとしてパフォーマンスをすることで、今のダンス業界のレベル低下を加速させるのは止めて下さい。レストランでパフォーマンスをしたいなら、プロになる為の努力を経て、権利を勝ち取らなければなりません。

パフォーマンスのスキルを身につけるための唯一の方法は、実際にパフォーマンスすることです。繰り返しになりますが、スピーチとパフォーマンスはとても似ています。スピーチ上達の唯一の方法は実際に人前で話す事です。私たち、ベリーダンスの先生は、生徒に適切な(訳者補足:非営利の)パフォーマンスの機会を与えなければいけません。生徒がいきなり外へ飛び出して、レストランで綺麗な衣装を着て踊り始める前にです。私たちには、パフォーマンスのあらゆる側面について生徒に教え、今後直面する様々な事態に備える責任があります。綺麗な衣装だけではプロになれません。鍛錬があなたをプロにするのです。お祭りや、介護施設、スタジオのパーティー、学校のイベント、サークル、そして非営利団体など、さまざまな場でパフォーマンスの経験を積んで下さい。そして、観て下さい!プロダンサーのショーを見ましょう。出来る限り多くのイベントに足を運び、何が効果的で何がそうでないのか、観客の反応はどうなのか、批評的な目で観察してください。私は、主に2種類のイベントを、全ての生徒ダンサーを育てるための場として主催して来ました。(私のスタジオに所属する生徒に限らずです。)「お茶会ハフラ」と「生演奏で踊るハフラ」はどのスクールの生徒にも門戸を開いています。どちらのイベントも、年に何回かは開催されていますが、どなたでも歓迎のイベントです。
また、プロになるための鍛錬の中には、レストランでの様々な振舞い方、たとえばお客様があまりに少ない時は踊らない、といった内容も含まれることは肝に銘じてください。あまりにも観客が少ないと、人々はダンサーに同情してしまいますし、長いパフォーマンスを保たせるために必要なエネルギーが得られません。レストランショーで踊ることを決める前に、パフォーマンスの条件を設定して下さい。あなた自身も、オーナーのニーズを知る必要がありますし、互いに合意の上で仕事を始めるべきです。そうでなければ、後に問題が起こるでしょう。
適切な着替えスペースや、きちんとした音楽システム、ショーが始まる前のアナウンスについてお願いしておきましょう。どのくらい観客数が必要か(例えば12人)きめて、最低人数に満たなければ踊らないこともあるでしょう。その場合も、他で仕事を入れられた筈の時間を使って出勤したのですから、お給料は貰わなければいけません。そして、はっきりさせておくべきは、観客を呼んでくるのはダンサーの仕事ではないと言うことです。集客はレストランの仕事です。どうか、「かわいそうなオーナー」を「助けてあげよう」とするという、多くのダンサーの過ちを踏襲しないで下さい。

パフォーマンス中の給仕は控えてもらいましょう。あなたが踊っているのがまるで目に入らないかのように、食事や空のお皿を乗せたトレイを持ってウエイターやウエイトレスがダンスする場所を行き来するのは(失礼なのはもちろん)とても気が散るものです。また、これは当たり前なことですが、東京のレストランは本当に小さいので言わなくてはいけません-踊ることを決める前に、踊るために十分な場所があることを確認して下さい。さらに、ショーは約束通りの時間に始めるべきです。15分以上待たせられるようであれば、理由が何であれ、その分賃金を受け取って下さい。もちろん、あなた自身も早めに踊る場所に到着しなければなりません。また、ショーの長さも約束通りであるべきですから、アンコールは無しです。例え観客に頼まれてもです。常に、もっと見たい、と思わせるところで留めておきましょう。
最後になりますが、適切な賃金をショー後には受け取って下さい。日本で適切な金額はいくらでしょう?以前は15.000円〜20.000円でしたが、最近であれば10.000円程度が最低限と言えるでしょう。また、衣装にチップを挟ませるのはいけません。気が散りますし、また侮辱的です。私は、チップを渡そうとする人が居れば手で渡してもらうか、アラブスタイルでマネーシャワーを浴びせてもらいます。体には触らせません。また、もし観客からチップがあったとしても、オーナーがもともと決まっていた賃金を減らしていいということにはなりません。あなたがオーナー要望を伝えられないのだとしたら、それはあなたが自信に欠けているということを意味します。自分を信じていないのに、一体どうやって人前で踊り、楽しませることができるでしょうか?必要な条件はきちんと伝えて、プロとしての誇りを示して下さい。主張できなければ得ることも出来ません。これはダンスの仕事としての側面です。ダンスは楽しみでもありますが、同時に仕事でもあります。あなたがプロなら、ダンスは職務ですから、真剣に向き合わなければいけません。

最後に、これも常識かと思いますが、理解出来ていない音楽では踊らないで下さい。しっかり予習しましょう。音楽を選んだ際に、歌手や音楽家の名前を分かっていますか?どの国の音楽か、いつの時代の作曲なのか、曲の意味や、どんな動きが適切なのか、理解していますか?もちろん、ベリーダンスは自由な踊りです。ただ、自由であるということは、どんな音楽でどんな動きをしてもいい、何でもありだということではありません。私は、最近の先生たちが、本物のエッセンスよりも人気のスタイルを優先して教えた結果、全く知識に欠けてしまったダンサーを今日良く見ます。それがベリーダンスの進化(evolution)と言っているようですが、実際にはただの退化(devolution)です。単に時間をかけていないか、面倒がっているかだと思いますが、どのような動きが音楽に対して適切かを学ぶことをしていないので、無知を助長し続けています。


古典のエジプトの曲で踊るときと、ポルカで踊る時では動きも違って来ます。シャービーはトルコの音楽とはスタイルが違うでしょう。ババカラムは一つの特徴的なステップがありますし、ヌビアンもまた違います。ヴァイオリンのタクシームはドラムソロとは違います。ユーチューブ上で、どれだけ沢山のダンサーがヴァイオリンに合わせてシミーしているかは関係ありません。ヴァイブレーションが起こっていない時にシミーをするのは、意味不明です。ただ有名なダンサーだからといって、真似しないで下さい。頭を使ってください。あなたは音楽の翻訳家です。音楽は何と語りかけて来ますか?音楽の言葉が理解できないなら、もっと勉強が必要です。もっと学んで下さい。長いこと踊っているから、教えているからプロダンサーだという訳ではなりません。教えるには何の資格も要らないからです。ベリーダンサーは文化的な、音楽的な差異に敬意を払わなければなりません。古典で踊るなら古典のスタイリングと動きが必要です。シャービーの動きはシャービーの音楽のためのものです。ハリージーはハリージー、ジャズはジャズのための動きがあります。何でもかんでも取り入れると、パフォーマンスはただのごった煮のようになってしまい、音楽的には意味を為しませんし、わけも分からず踊っているようにしか見えません。
もし他のジャンルから動きを取り入れるのであれば「なぜそうするのか」理由が必要です。


あなたはプロですか?どうでしょうか。
学びましょう。本当に音楽やダンスについて知っていて、正しい智識を教えてくれる人に質問しましょう。(たまたま側に居た人にではなく。)
自分で研究しましょう。ただし気をつけて調べて下さい。大量の間違った情報に遭遇することと思います。名のある学者でも、間違っていることがあります。誰もがすべてを知っている訳ではありません。また私たちはそれぞれ違う経験をしていますし、それによって物の見方が偏ってしまうこともあります。特別な情報を求めている場合、専門家、また専門知識を持つアーティストを探しましょう。ベリーダンスが世界的に人気になる前に地位を築いた世代は、とても良い情報源です。また、あまりビジネスに携わっていはいなくても、幅広く学んでいて知識深いダンサーも居ます。
もうこれについて全部知っている、と思っても、けっして学ぶことを止めないで下さい。もしかしたら、それは発見の序の口に過ぎないかもしれません。

サディア





The Good, the Bad, and the Ugly

2018-01-08 at 18:38PM

THE GOOD, THE BAD, AND THE UGLY
良い、悪い、みにくい?

 

こちらの記事は、特にベリーダンスの先生方、プロまたは生徒ダンサーの方々に宛てて書きました。以前書いた記事「Baladi, LA LA LA」に関連した内容です。

 

正直に言えば、最高に素晴らしく物知りであるかのように振る舞っているダンサーたちを、思いっきりさらし者の刑にすれば、さぞかし良い気分になるだろうとは思います。

彼女たち自身の無知を「シェア」したり、金のなる木アピールをしたりしてベリーダンスで儲けているダンサーたちに対する不満を発散すれば、私の心はすっとするでしょう。

ですが、個人をこきおろすのは非常に非生産的なことです。

まず、私たちが今陥っているオリエンタルダンスの苦境は、誰か個人の責任ではないからです。さらに大事なことは、個人の名前を挙げてしまうと話のもっと大切な点からフォーカスが逸れてしまい、ただの噂話になってしまうからです。それは私の本意ではありません。たとえ、オリエンタルと呼ぶにふさわしいダンサーを名指しする、という前向きな方向であっても、です。もっとやるべきことは他にあると感じています。誰が良くて、誰が悪くて、誰がみにくいか(※みにくいというのは外見ではなく性質のことです)噂をするよりも、もっと建設的な方向に意識を向けて行きましょう。

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いつのことか、どこかで、とても才能があり技術にも優れていながら、中東音楽や文化についてはまったく無理解なダンサーが、無知ゆえにか意図的にか、このダンスを変え始めました。

 

中東音楽や文化については理解していなくても、彼女たちは有名になれるチャンスを見出し、利用したのです。ダンサーとしての才能も華も持ち合わせていた彼女たちはベリーダンスブームに乗って世界的な注目を集めました。

人々は拍手喝采を送り、あまりオリエンタルとは言えないオリエンタルダンスを通じて彼女たちはどんどん人気者になりました。何でも、どんなものでも、ベリーダンスと呼ぶことができるようになりました。生徒の方々はどんどん混乱し、訓練不足の先生がどんどん増えて行きました。

 

また、エジプト人のダンサーの中にもこの流れの中にビジネスチャンスを見出した人々はいました。誰がこうしたダンサーたちを責められるでしょうか。人は誰も成功を志し、今よりも上を目指すものです。実際、それは生きとし生ける者の性だと言えるでしょう。エジプトで大きなダンス・フェスティヴァルが生まれ、世界中に広まり、それからもっと幅広い観衆を惹き付けるため、よりベリーダンスを売り出しやすくするためにと、本来中東とは関わりのなかった様々な要素(ファンヴェール、ロマンティックポップ、アルゼンチンのイシスウィング、バラディータクシームの振り付け、タラブの振り付け、そしてジャズやヒップホップの中の見栄えのする動きなど)がベリーダンスに輸入されるようになりました。

 

 

どのように、いつ、どこで、そしてなぜこのようなことが起きたか、という点は私には明確には分かりません。過去は過去です。覆水盆に返らず、とも言いますが、過去のことを特定しても、現在の私たちの役にはたちません。今の私たちには片付けなければならない問題が山とあります。始まりは問題提起、次に確固とした行動によって変化が起こります。前回の記事「バラディー、ラララ」において私はただ明らかな事実を指摘したに過ぎません。一部の皆さんは以前から気付いていた事実だと思いますが、以前の私の様にあなた方は沈黙していたのでしょう。もしかすると以前の私の様に、あなた方も自分を「孤独な抵抗者」(訳者注:陪審員として検察の不正に対する抗議を続け最終的に正義を勝ち取るまでを記録したリンダ・コックス著作のノンフィクションの題名)のように感じていたのではないでしょうか。また他のダンサーが「古いのと新しいの」どちらに価値があるかと議論し、革命的なダンス技術という名目が語られる時、もしかすると私のように頭を掻きむしり、私のように、いったい彼女達は何の音楽を聴いているんだろうか、と考えていたのはないでしょうか。

 

音楽の中に、以前と変わったところはまったく見当たりません。音楽は以前のままで、それに対する翻訳(ダンス)だけが変わったのです。どのように? その変化は意味があるものでしょうか。

「おはようございます。」という日本語の意味は挨拶でしょう。もし私がそれを英語で「オハイオに行くところです。」などと訳したとしたら、先生は私の訳を正そうとするのではないでしょうか。

音楽は様々な翻訳が可能な言語ではありますが、おかしいものはおかしいのです。そしておかしい、と解っている私たちは、その不出来な-もっとはっきり言いましょうか-間違っている訳を直す責任があります。

 


もうずっと昔の話になりますが、サミー・ファラグ氏と、ハリー・サロヤン氏の両氏から、全く同じ日、同じイベントで、ただし別々のタイミングで、全く同じ言葉を聞いたことがあります。

強い憂慮を込めて、彼らは私にこう言ったのです。「サディア、これは君が何かしなきゃ!」その頃から、2人ともこのダンスの変わりゆく様子に危機感を感じていたのです。

当時、私は既に日本に住んでいて、ベリーダンス・フェスティヴァルのためにカリフォルニアを訪れたところでした。それはMECDA(訳者注:中東文化/ダンスに特化したアメリカ合衆国の団体組織の名称)スポンサーによるカイロ・カーニヴァルでした。そのフェスティヴァルではとても奇妙な、おかしなベリーダンスのステージが沢山繰り広げられていました。中東文化ともダンスとも全く関係のないものが持ち上げられて、褒めたたえられていました。信じられない気持ちで、私は黒装束のパフォーマーたちがカントリーウェスタン音楽に合わせて、蛇使いの壷から新体操リボンを取り出す様子を眺めていました。東京という隔離された世界からやって来た私の目には、中東文化を広めるためと謳っている組織の傘下で、これらの茶番が当然の様に繰り広げられているのは衝撃的な光景でした。

 

ですが、その頃私は「どうして私が?私は有名じゃない。誰が私の言うことなんて聞くの?どうやって私が誰かに影響を与えられるって言うんだろう?」と思っていました。
カリフォルニアを訪れた後、私は日本へ戻りました。そして沈黙を続けました。
決して彼らの言葉を忘れはしませんでしたが、日本で、心地良い小さな世界に閉じこもって、踊り、教えながら、起こることを見ていました。沈黙したままで。
そうしているうちに、新しい世代のダンサー達が益々エゴを押し出すようになり、ダンスそのものの価値が軽視されるようになっていきましたが、
それでも私は何も言わなかったのです…。

 

私が自分の使命を受け入れるまでに、とんでもなく長い時間がかかってしまいました。私の想いはようやく溢れ出すまでになりました。そしてハワイの火山の女神ペレのように、私はもうこれ以上沈黙はしません。爆発するのみです。私には長いキャリアがあり、振り付け師として、講師として、ダンサーとして良い評判を築いています。日本の生徒の方々、他の先生方、そしてプロのダンサーの皆さんは私にとても敬意を表して下さり、耳を傾けて下さいます。私は東京が自分の拠点であることに気付き、押し隠していた自分の中の声を見いだしたのです。日本での初めての「爆発」の後、私はもっと海外の友人達と話すようになり、Face Bookに意見を投稿するようになりました。まだ続きがあります。そろそろ建設的な行動を起こす時です。

 

良い、悪いの例を出すのは一部の人々にとっては理解の助けになるかもしれませんが、私は個人の好き嫌いを云々する沼に深入りしたいとは思っていません。復讐劇や策略、死角攻撃、ゲリラ戦術を携えた狙撃兵を焚き付けるようなことは嫌なのです!私は、ベリーダンスの良い例、悪い例、みにくい例のビデオを投稿するようなことはしたくありません。そんなことをしても、私が隣に座って、詳細にビデオのどの部分が変だと思うか説明を出来るのでも無いなら、あまり意味の無いことです。まるで盲目の方に青と言う色を説明するようなものです。前もって知っているのでもなければ、理解することはできないでしょう。

 


そのかわり、私はあなた方一人一人にあなたが良いと思うダンスのビデオ(そしてあまり良く思わないビデオ)をより批評的な目を持って観察し、どの動きがより良い翻訳か、またはその逆か、そしてそれは何故なのか、自分で批評してみて頂きたいと思います。最も優れたダンサーとは音楽を体現し音楽に込められた情感を表現することのできるダンサーである、ということをふまえた上で、どの音楽にビデオの中のダンサーがなりきっているのかを観察しましょう。彼女はあなたの耳に聞こえる音楽に寄り添って踊っているでしょうか?そのダンサーの想像の中にだけ存在するような、架空の音楽で踊ってはいないでしょうか。どの動きがオリエンタルで、どの動きが他の種類のダンスからの借り物なのかを観察しましょう。そのダンサーの音楽の翻訳全体を通して見た中で、輸入の動きが上手く機能しているかどうか、よく自身に問いかけてみて下さい。そもそも、オリエンタルダンスに見えるのかどうかも。ラテンや、ジャズや、バレエや、その他別のダンスに見えはしませんか。また、ダンスと流れている音楽とが全く無関係で、まるでそれぞれが別々の泡の中に浮かんでいるかの様に、ダンスしているところに偶然その音楽が流れて来ただけの様に見えはしないでしょうか。

 

 


個々のダンサーが良いか悪いかについて話していても、私たちの目指すべき目標達成の助けにはなりません。安全な内輪のグループ内に居れば、声を上げるのはそれほど難しいことではありません。お友達と意見が合えば気持ちは晴れることでしょう。ですがそれに何か意味があるでしょうか?いくら話しても何にもなりません。

 

ダンサーの皆さん、私の意見や他の先生の意見(特に最近有名になった先生方の)をよく考えもしないで受け入れるのは止めましょう。あなたには頭があります。しっかり使いましょう。

あなたには魂があります。深く見つめましょう。あなたにはハニーン(訳者注:愛、郷愁、切望等という意味のアラビア語)があります。表現しましょう。

講師の皆さん、率先して生徒の方々に音楽の構成に気を配るよう教えましょう。彼女達が音を形に出来るよう、手助けをしましょう。彼女達に本物のオリエンタルダンスを、本物のオリエンタルのフィーリングを教えましょう。

 

ただ単に他の人の意見に従うのではなくて、あなた自身で研究を重ねた上であなた自身の知的な意見を築いて頂きたいのです。ただ単にエジプト(または他の中東の国)出身だからと言って、その人が正しいとは思わないで下さい。もちろん正しい場合もあると思いますが、何が真実かそうでないかなど構わずにベリーダンスの人気を利用しているだけの場合もあるのです。自分自身の音楽性を培っていけば、他のダンサーの音楽性の有無もより容易く見分けられる様になるでしょう。真実のオリエンタルダンスとは何なのか解るようになるでしょう。そして意見を決める際に、私にも、誰にも頼る必要などなくなるはずなのです。

 

最近私が自分の中に見いだした力は、私たち誰もが持っているものだと、私は伝えたいのです。一人一人の影響力は小さなものかもしれませんが、力を合わせれば私たちの声は大きな力を持ちます。

音楽は音楽であること、そしてベリーダンスは文化の一部なのだということに対する気付きをもっと人々に広めるために、この声を届けよう、と私は伝えたいのです。

どんなダンサーにとっても、最も重要な学びはただただ「音楽と一体となる」ということだと、私は伝えたいのです。

 

あなたの生徒に、「音楽と一体となりなさい」と教えて下さい。

そしてその意味するところが解らないのであれば、教えるのはやめて下さい。

学びましょう。

 






Baladi - LA, LA, LA

2018-01-08 at 18:25PM

 

BALADI – LA, LA, LA

バラディー、ラ,ラ、ラ。

 

 

親愛なるダンサー、生徒さん、そして私のお友達の皆さんへ

 

音楽は常に論理的な物です。明確に出来ており、正確なタイミングを以て聞き手の感情を喚起します。それぞれの音楽は演奏とアレンジメントによって練り上げられた複合的なエネルギーと、雰囲気を持っています。ダンスは音楽に沿って踊られるもので、だからこそ意味を成します。その音楽を真に翻訳するようなダンスを踊るためには、各自の音楽が持つ雰囲気とエネルギーに沿って表現しなければなりません。ダンサーが音楽を創り出すわけではないのです。ダンサーは音楽を視覚化する存在です。音の持つ意味と、音楽の背後の感情を観客に伝えるため、ダンサーは体を楽器として用います。言い換えれば、ダンサーの仕事は観客の為に音楽の意味を伝えることだと言えるでしょう。

 

残念ながら、今日私が見る多くのオリエンタルダンスのパフォーマンスは、そのコンテクストにおいて意味を為していません。これまで何度も、高価な衣装を着て美しく技術に優れたダンサーが、全く自分の仕事を理解していないという光景を目にして来ました。人々はこのようなダンサーを褒めたたえますが、それは彼らが、そのダンサーと同じ様に、音楽に対する適切な応えというものを解っていないからです。

どうしてでしょうか。

私が思うに、理由の一つは多くの「先生」が(例え有名でも)自分が教えている分野を理解していないからです。もっと言うと、生徒は先生の教えることを疑わずに従ってしまうので、音楽に対する正確な理解を全くしないで、生徒と先生が一緒になって停滞し続けてしまうのです。

もう一つ理由を挙げると、今日の生徒の方々がYou Tubeをあまりにも沢山見ていることです。良いダンスビデオの10〜20倍もの数の下手な解釈のダンスビデオを見て、良い方を下手な方だと勘違いしてしまうのです!生徒さんにとってはややこしいことです。アラブ音楽に対する理解のないダンサーを見れば見る程、勉強中の皆さんはどうすればいいのかわけがわからなくなってしまいます。

 


有名なダンサーだからといって,音楽センスに優れていて音楽のフィーリングを表現する能力があるとは限りませんが、人気があれば人は彼女達を真似てしまいます。誤った理解、誤った知識、そして誤った認識がどんどん広まって、今では真実に芸術的な音楽解釈よりも間違った解釈の方が多く見られる程です。

ワークショップのプロモーター、先生方、そしてミュージシャンまでもが声を上げることを恐れていますが、それはベリーダンス業界の金のなる木を保ち続けることの方を遥かに気にしているからです。

生徒の方々は流行のダンサーの名前を全部覚えていて全く同じ動きを真似することが出来ますが、本物のダンスのエッセンスは彼女達の手から零れ落ちていきます。

私がいつも生徒たちに勧めるのは、YouTubeを見るのならベリーダンスが一般的に人気になる前(ベリーダンス・スーパースターズの出現の前、1990年代初頭頃までが確実でしょうか)のビデオを見ること、そして批評的な目で見ることです。(昔のダンサーだからといって素晴らしいダンサーとは限りません。)特に注意深く見るように伝える部分としては、ダンサーがどんな風に音楽を使って、どんな風に表現を展開させていっていたかということ、そしてどんなに精妙な動きをしていたか、どんなに力強く、優雅に、そしてごく自然に、洗練された芸術性を発揮していたか、といった部分です。それがベリーダンスだからです!単にポーズしたり、美しさを見せびらかしたり、セクシーに見せようとする代りに、音楽を忠実に表現してみせていたダンサー達こそが(訳者補足:ベリーダンサーだからです)。彼女達は皆、自分自身の美しさとか、名声とか、真新しい奇抜な衣装のことではなくて、音楽が語る物語を観客に伝えていました。それぞれのダンサーが、自分らしい音楽解釈を創り出すために独創的なアプローチを行っていました。型で抜いたクッキーよろしく、お互いにそっくり同じステップを同じ様に踊るダンサー達とはまるで違っていました。それにダンサーが圧倒的な技術の持ち主だとしても、音楽に合うかどうかも構わず素晴らしい動きを見せびらかすことは決してありませんでした。技術は常に、相応しい動きで音楽を翻訳するためのものだったのです。

 

オリエンタルダンスにおける音楽の解釈は自由なもので、良い表現も良く無い表現と同じ位に多様です。ダンサーが音楽の勉強が十分出来ていないとハッキリわかってしまうのは、動きのスタイルと音楽が合っていない時です。最近一番良く目にするのはこうしたケースで、私がダンサーに「動きが音楽を表現出来ていない」と言うと「新しいスタイル」といった様なことを言われます。ですが、私に言えるのは「スタイル」は一つしかない、ということです。それはあなたが踊っている音楽が持つスタイルです。もし音楽のスタイルに似合わない動きやテクニックを使用したいと思うのであれば、違う音楽を選びましょう。古典曲で踊るなら、古典の動きを選ばなければなりません。ベリーダンスはごちゃ混ぜ寄せ集めのバイキング料理とは違います。いくら多くの人がそういう物にしようとしてもです。学びと鍛錬に欠けたダンサーは、より音楽性と文化的な理解を備えたダンサーはしないようなステップや動きを選んでしまいます。それでいて知識の乏しさを「独創性」と言い張って隠そうとします。そう言えば音楽を無視して好きなように踊る言い訳が得られると思っているようですが、これはごまかしに過ぎません。

非常に困るのは、彼女達の愚かさに対して、批評出来る程の専門知識も持たない人々から大変な数の賞賛が寄せられていることです。そうして無知が更なる無知を呼び、回り回って、見ていて目眩を起こしそうな程です。もしあなたがバラディータクシーム(バラディープログレッション、アコーディオンバラディーとも呼ばれます)を踊るならその分野に相応しい表現をしなければいけませんし、他のダンスから動きを借りるものではありません。イラキスタイルのヘッド・トスをしたり、キックボールチェンジ、ダブケの足踏み、仏頂面をしたり、胃痛のようにお腹を押さえたり、シャッセをしたり、背泳ぎのように腕をブンブン回したり、大げさに上半身スウェイをしたり、スピンを重ねたり、スプリットしたり、床を転がり回ったり、拳を握ったり、エネルギーを外向きに爆発させたり、するものではありません。短く言えば、バラディーではないことは止めましょう。簡単なことです。ただ、音楽と一体化して下さい。

何をしても自由なんですよ。と彼らはあなたに嘘をついたのでしょう。何をしてもいい、というのは違います!それに何一つ「新しい」などということはありません。それもまた嘘です。

スタイルは音楽の中にあります。正しく音楽を視覚化しようとするのであれば、新しい動きか古い動きかといった疑問は湧いてきません。音楽の解釈として、より相応しい動きかどうか、という疑問だけが出てくる筈です。

バラディータクシームはオリエンタルダンスの中でも最も難しい分野の一つです。本当に上手に踊ることができるダンサーは殆ど居ません。今日のダンサーの殆どがバラディーを踊ろうとするのは、私には見ていて痛々しい光景です。彼女達は上手なダンサーかも知れませんが、とても貧しいパフォーマンスになっています。音楽のコンテクストにおいて意味不明な動きを沢山見たので、全てを挙げることは出来ませんが、総じて一番言えることは「踊り過ぎ」ということです。

 

 


一つ目、彼女達は自分に出来る技術を見せようとし過ぎです。観客を圧倒しよう、テクニックで「凄い!」と言わしめようとしています。悲しいことに、特にタクシームではフィーリングの方がより大切だということを忘れているか、もしくは知らない様子です。


二つ目、彼らの音楽への応え方はわざとらしく、そして大げさ過ぎます。パフォーマンスはまっさらで正直なものです。あなたが気持ちを偽って、劇的に見せようと頑張っていれば、それは見ていて分かります。また大きければ大きいほど良いとは限りません。動きを抑制し操ることで動きに張りつめた高揚感が生まれます。それがタクシームの美味しい部分なのになくなってしまっています。バラディータクシームの展開の一つは、緊張感と高揚感を保ちながら徐々に盛り上がり、遊ぶ様に掛け合い、最後の解放の瞬間に到達するというものです。このような展開がタクシームの間に繰り返され、また次の展開へと繋がっていきます。

三つ目、動きの適切な展開のさせ方、繋ぎ方が分かっていません。次から次へと、関連性もなく違う動きを繰り出すのはただのハードなエクササイズに過ぎず、何も伝わってこないので面白くありません。バラディータクシームは、タクシームを通して盛り上がっては落ち、そしてクレッシェンドへと到達していく音楽と共に感情を揺さぶるものです。

四つ目、エネルギーの使い方と焦点を当てる部分が間違っています。もう一度言いますが、全ては音楽に合っていなければなりません。バラディータクシームでは主に内側に焦点を当てており、精妙でありながら力強いエネルギーがあります。

五つ目に、彼女達は音楽を内面化するところまで到達していません。まるで彼女達が泡の中に浮かんでいて、音楽は別の泡の中に隔離されているようです.ダンサーの中から音楽が溢れてくるようには感じられず、寧ろたまたま流れている音楽に合わせて踊っているように見えます。

 


私はこのようなパフォーマンスを見ても楽しめず、感動出来ず、そして満足できません。端的に言って知識の無さだけではなく、情緒的な感性に欠けていることにガッカリします。

私には彼女達がどんなに自分の踊りに自信を持っているかが分かります。彼女達は自分たちは専門家だと思っていますが、私が見ると音楽への応え方はあまりに的外れです。オリエンタルダンスは、特にバラディータクシームは生き延びることはできるのだろうかと頭を振って考え込んでしまいます。こうしたダンサー達は適切な訓練に欠けていますが、それでも自分たちはこのダンスを理解していると思い込んでいます。どうしてこんな風になってしまったのでしょうか?「先生」達は不適切なテクニックを教え込んでそれを「新しいスタイル」と呼んでいます。全く馬鹿げています。

 

時々Face Bookで、バラディータクシームというタイトルの誰かのビデオを目にします。無音で見ても、次々に間違いが目に入ります。全く音を流さなくても、そのダンサーがバラディーを踊れるかどうかは分かります。エネルギーが不適切です。動きが不適切です。そのスタイルはバラディーではないし、バラディーであったこともないし、これからもバラディーにはなりません。

もう一度、今度は音を出して見てみます。・・ビデオを止めます。怒りたくないからです。

彼女達は本当に自信に満ちていますし、また沢山の賞賛を受けています。けれども彼女達は適切な音楽の体現とはかけ離れています。近しいところさえ見当たりません。本物のバラディーではないのです。

私は泣けば良いのか、叫べば良いのかわかりません。だから代りに、皆さんへこの記事を書こうと思いました。ダンサー、生徒さん、そして私のお友達の皆さんへ、一つ提案をしたかったのです。インターネットや、名声や、お金や、そして西洋的な価値観に影響される前の時代から沢山学びましょう。

そしてバラディーを踊りたいと思うなら、本物の先生から本物のバラディーを学んで下さい。

 

サディア











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